童話には「殺害」のテーマがよく生じています。殺そうとする、あるいは、実際に殺してしまう、と言う話がよく語られているのです。グリムの童話においても、例えば「赤頭巾」、「白雪姫」、「ヘンゼルとグレーテル」などどれにも重要なテーマとして語られています。グリムの話の中で「殺害」のテーマのあるものを除外したら、実際にグリム童話は成立しなかったのではないでしょうか。なぜなら、グリム童話の中の約四分の一が「殺害」をテーマとしているからです。
グリム兄弟がなぜこんなにも「死(殺害)」ということにおいて多くの言い伝えを童話にしたのでしょうか。子ども達に何か言い聞かせる、という目的があったというよりも、スイスのマックス・リューティが言うように、童話が残酷なのではなく、その童話が語られた時代が残酷な時代であったと言えるでしょう。
白雪姫のエンディングではハッピーエンドの話もありますが、実際私が読んだ白雪姫の話では、女王は焼いた鉄の靴を履いて死ぬまで踊らされた、とありました。実際16世紀に起こった宗教裁判による魔女狩りとこのグリム童話の中で起こる様々な拷問は似ており、グリム童話が残酷であるなら現実も残酷であったのです。
確かにグリム童話は、残虐であり、子どもたちに恐怖感を植え付けてしまう可能性があります。しかし、この「残虐性」といった点において私たち人類が過去に行ってきた様々な非道がこの「グリム童話」に重なっているということもまた確かなことです。グリム童話を否定するということは、この人間世界さえも否定してしまうことではないでしょうか。
現にグリム童話について書かれた本によると、「グリム童話がナチスの強制収容所を育てた」という議論が出ているらしいのです。これについて、第二次世界大戦後まもなく、グリム童話の残虐性が西ドイツのジャーナリズムをにぎわせたことがありました。例えば「ヘンゼルとグレーテル」でグレーテルが魔女をだましてかまどに突き落とし、焼き殺してしまうが、これが強制収容所でいうガス室につながっているというのです。
私は、この童話は元々子どもたちの話ではなかったのではないだろうかとも思います。それが、次第に聞き手が子どもたちに変わり、子供達用に実際の話から残虐性を抑ていったのではないでしょうか。